リディア・デイヴィス「ほとんど記憶のない女」を読む
私は週末になると朝食べるための1週間分の果物と、漬け物にするための野菜を求めて買い物袋を持ってふらふらと出かけていくんですが、先日、その買い物袋をプラプラさせながら図書館に寄った際に出会った本について書こうと思います。
ほかにも色んな話とそれについて考えたことが沢山あるんですが書ききれないです。
背表紙に印刷された題名は、目を奪う言葉は使っていないにもかかわらず、その組み合わせゆえに妙な味わいがあって、手に取ってパラパラとページをめくってみると、ちょっと面白そうだったので読んでみることにしました。
一応、短編集となっていたので小説だと思ったんですが、「…これは、エッセイ?」というような、その場で思いついたことを書いたんじゃないかという内容が1ページに満たない分量で書かれているものもそこここにある51編。
リディア・デイヴィスは、「書くことについて書く」「考える(た)ことについて考える」タイプの作家で、そのためこの本でも物語としての体裁を保っているものは少数です。唐突な話の展開や、話者が誰なのか分からくなるような複雑な作品と、作者の心情がそのまま描かれているような不思議な作品が並んでいて、読む方としては展開が読めず、「これはどう読めばいいんだ?」と読み進めていくことになります。
しかし、文章は端正で簡潔、論理的であり、力が抜けてる感じで読みやすいです。「んん?」と思ってひっかかるところもありますが、ゆっくり読み直すときちんと意味は伝わってきます。
これは、この本の最後の1編です。
「共感」
私たちがある特定の思想家に共感するのは、私たちがその人の考え方を正しいと思うからだ。あるいは私たちがすでに考えていたことをその人たちが私たちに示してくれるから。あるいは私たちがすでに考えていたことを、より明確な形で私たちに示してくれるから。あるいは私たちがもう少しで考えるところだったを示してくれるから。あるいは遅かれ早かれ考えていたことだろうことを。あるいは、もしもそれを読んでいなかったらもっとずっと遅くに考えていただろうことを。あるいは、もしも読んでいなかったら考える可能性があっても結局は考えなかったであろうことを。あるいは、読んでいなかったら考える意思があっても結局は考えなかったであろうことを。
なぜ共感するかということについて、その考え方との距離を段々と広げていきながら言葉を重ねて考察し、そして読者がこの文章について共感するかということも問うているのではと思います。
こうした、何だかこれは哲学ではないかと思うようなものがある一方、彼女自身の経験に基づいたであろうつきあっている男への不満や、それについての割り切れない感情なんかの話もあります。
自分で作った料理以外は満足しない夫の話は、淡々と料理の話が続いてくだけなんですが、同居する男女の深い溝が良く描かれていて、ドキッとしました。理解し合うことについて、相手を何とか認めようとして色々考えるも、やっぱダメだわみたいなオチがつく話もあって面白いです。
この話も出てくるんですが、彼女はポール・オースターと一緒に暮らしてたんですね。フランスで別荘の管理人として2人で過ごした日々は、そういえば彼の作品にも出ていたのをおぼろげに思い出しました。
ほかにも不思議な、ときには暴力的な筋立ての話や、彼女自身の不安や絶望といったものが描かれている話もあるんですが、子どもについてのまなざしや、相手を理解することについての努力といった彼女自身の資質が伝わってきて、好感が持てます。
そしてそっけない感じの文章なんですが、そのくせ描写が豊かで、リズムがいいです。「この状態」なんて詩なんじゃないかと思いました。原文を当たったわけではないですけど。きっときちんと翻訳が伝えているんだと思います。
騒がしい教室でみんなとはちょっと離れて、窓の外を見ているような女の子ってこんなこと考えるようになるのかな、などとふと思ったりしました。