boofoooohの日記

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本を読むということ 高野文子「黄色い本」

忙しいときの方が本て読むよなあと、雪で外出できずに空いた時間を無為に過ごしながら考えてます。朝、体を動かさないと調子出ないんですよね…。何かする気が起きないというか。

でも、いったん読み出して嵌ってしまうと、読んでる時間が大切になってきて、何とか工面したり、逃さなくなったり。読んでないときも本のこと考えたり。

 

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「黄色い本」高野文子

 

高野文子の「黄色い本」は、卒業を前に「チボー家の人々」を読み耽り、日常と作品の世界が分ち難くなる高校生の女の子の話です。彼女は、卒業後地元の衣料会社に就職しようとしているのですが、入社試験の勉強もせずにひたすら黄色い本、「チボー家の人々」を読みます。「チボー家の人々」は、何種類か装丁の違うものがあるようですが、黄色い装丁のものが有名なようで(私は白いやつでした)、それがタイトルにもなっています。

第一次世界大戦期にヨーロッパで革命を志す「チボー家の人々」の登場人物と自分を重ね合わせ、というより日常の中に彼らの姿を見、作品の中に自らの姿を見いだします。時代の設定は、高度経済成長期くらいでしょうか。田舎の、普通の暮らしの中にあって、黄色い本に印刷された文字によって彼らと共に生きるのです。

もっとも普通の暮らしといっても、そこはかとない緊張感や、彼女が何か胸に抱えながら、地元の衣料会社に勤めることへの割り切れなさみたいなものが描写されていて、その繊細さも本書の魅力なんですが、何といっても本を読み進めていく彼女の姿に、非常に共感を覚えると思います。

本に出てくるセリフや描写が日常つい出たり、それらに自分の考えが影響されることや、登場人物への友人のような親近感、読み終わってしまうことの喪失感がリアリティをもって描かれています。私の好きな場面は、しおり紐を挟み忘れてどこまで読んだか分からなくなって、読んだかな、まだかなと思いながらまた読み始めて、しばらく経ってからここ読んだって気づくってとこです。

「チボー家の人々」は大作で、彼女はそれをゆっくりと、半袖のころから春までかけて読んでます。私は中学生のときに、大食いに挑戦するように読んで、今となっては殆ど忘れてますが…。主人公のジャックが死んで、しばらく止めちゃうんですが、返却期限が迫ってきて読み始めるときに、今まで筋が分かってしまうからと留めていたクリップを外して、目次のページを眺めながらジャックに別れを告げるところ、父親から買ってやろうかと言われても断るところなど、胸が打たれます。

本というカタチではなく、心の拠り所として作品を愛することの素晴らしさを描いていて、大変感動的…というより切なくなる作品です。この「黄色い本」に触発されて、「チボー家の人々」を再読し…いやちょっと無理…かもしれないんで、ダイジェスト版の「チボー家のジャック」にしてみようかな。

 

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高野文子の装丁で復活!そして絶版。

 

 

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 ともきんすについても書きました。よければこちら(詩と科学の交わるところ 高野文子「ドミトリーともきんす」)を。