boofoooohの日記

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リディア・デイヴィス「サミュエル・ジョンソンが怒っている」を読んでその短さについて考える

リディア・デイヴィスの日本では2冊目となる短編集が出ました。1冊目の「ほとんど記憶のない女」から10年振りです。「ほとんど記憶のない女」を読んだのは昨年で(→リディア・デイヴィス「ほとんど記憶のない女」を読む)、以来、彼女のことが気になっていたところ、このタイミング。買えと言われた気がして購入しました。

 

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リディア・デイヴィスの作品は、エッセイとも詩とも取れるような、でもほかに当て嵌まるものがないから自身で「小説」と呼んでいる、独特のスタイルで書かれています。

それはこの短編集でも変わっていませんでした。題材や手法は様々ですが、いかにもリディア・デイヴィスというような作品が並んでいます。

訳者のあとがきに、どのように作品が書かれるのか、作者自身の言葉が載っていて参考になりました。彼女は、「小さな黒いノート」を常に持ち歩いて、そこに身の回りで気になったことを書込み、それが小説へと姿を変えていくそうです。確かに彼女の作品は、メモ書きのようなものもあるんで、ノートに書いたものが、すでに作品になっているケースが結構あるんじゃないでしょうか。

彼女自身が「私は自分の短い小説が、ある種の爆発のように、読み手の頭の中で大きく膨らむものであってほしいと願っているのです」と述べているように、実もあり花もある完成型として提示するのではなく、むしろ種を読者の頭の中に埋め込むような、そんな作品づくりをしているのではないかと思います。

20ページくらいのもあるんですけど、1ページは当たり前で、1行なんてのもあります。このあとがきを読んで、彼女の作品の短さは、優れた短編小説を評価するときに使われる「余計なものを削ぎ落とした…」というような、長い文章を洗練させて、表現が純化された短さではなく、最初からあるべきものとして短いままなんだろうと思いました。

 

二人はもう寝室を別にすることにした。
その夜、彼女は彼を抱きしめる夢を見る。彼はベン・ジョンソンと食事をする夢を見る。

(「ほとんどおしまいー寝室は別」)

 

彼女が最後に比喩を使ったのは、いったいいつのことだろう!

(「祖国を遠く離れて」)

 

私たちは自分たちのことをとても特別だと思っている。ただ、どういうふうに特別なのかがまだわからない。こういうふうにではない、ああいうふうにでもない、じゃあどういうふうに?

(「特別」)

 

これを小説といって納得させる格好良さが彼女の魅力です。しかし、なぜこの短さなのでしょうか。確かに短ければ、読者に想像力を働かせる余地ができます。ですが、私の感じたことは、それとは少々違うのです。

 

彼女の作品を読んでいて思い出したのは、岡真史でした。矢野顕子がいくつか彼の詩に曲をつけたものを歌っているので、それでご存知の方もいるかと思います。

 

矢野顕子「みちでバッタリ」

 

岡真史の「ぼくは12歳」は、彼の詩の手帖に書かれた作品集で、一応詩集とされていますが、詩というより彼の考えや心情をそのまま綴ったかのようなものもあります。そしてどれも短い。そのそっけない短さが、ちょっと似ているなと思ってました。

 

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岡真史「ぼくは12歳」 下の2つは悲しい詩ですが、矢野顕子が歌ったような素晴らしい詩や、思春期真っ盛りな詩もあって、作品全体からは清々しさを感じます。

 

「フーセンが/だんだん/しぼんでく」(「フーセン」)

 

「ひとり/ただくずされるのを/まつだけ」(「ひとり」)

 

岡真史のナイーブさに比べると、リディア・デイヴィスの飄々としたヘンテコさが際立ちます。彼女のヘンテコさは岡真史にはありません。しかし、言葉少なに語られるその作風に、単に長短だけでなく、何か共通するものがあるように思います。

 そっけない短さと書きましたが、2人の作品を読むと、それで終わり?というような、何か取り残された気がします。書き手との距離は縮まらず、その間にある空気の冷ややかさを感じます。

岡真史の作品は、彼が12歳という短い生涯を自ら絶つ前に綴ったものです。それを知ると、作品の背後にある絶望と孤独を感じざるを得ないのですが、同時に、それを数語の言葉で表していることに、彼の毅然とした姿を見ます。彼には数語で足りたのです。

そしてその僅かな言葉は、読み手との間に空間をつくります。それは、単に文章が短いからできるものではありません。その毅然とした姿によりできた空間です。その空間は作品の一部となり、読み手は、この空間も含めて読んでいくことで、書き手の意図を探って行くのです。

 

リディア・デイヴィスは意識的にこうした効果を狙って、短い作品を書いているのかもしれません。読者の頭の中を膨らますために。しかし、やや長めの他の短編においても見られる、理解し合えないことや残酷さといった、自身を含む人間の資質に対する冷ややかな視線は、短い言葉でこそ、生きるのかもしれません。

もっとも、出来の悪い翻訳調のマリー・キュリーの伝記が醸し出す感動を表現できる魅力も、その短さのなかに生きています。いずれにしても、その短さの前に、それを読む者は、しばしたたずむのです。