boofoooohの日記

サッカー/音楽/本/大人になってからのフットサル

天久聖一「少し不思議。」を読む

音楽、フットサル、サッカーと来て、次は本だなあと思ったけれど、何の本にしようかというところで躓いてしまい、悶々としていました。本について何か書くってなると、つい身構えてしまいまして、でもまあ好きな本について好きなことを書くってことでいんじゃないかと、これ読んで手に取ってくれればもうけもの、と考えることにしました。

てなことで1冊目はイーサン・ケイニンの「エンペラー・オブ・ジ・エア」、と思ったんですが、絶版なんですね。ならば橋本治の「愛の矢車草」を、と思ったんですが、これも絶版。まあ図書館行きゃあるし、古本も入手困難ってわけじゃないから、紹介してもいいんですけど、なんだか気勢をそがれてしまった感じがして、一転、新刊の天久聖一「少し不思議。」について書こうと思います。

天久聖一は、TVブロスの連載コラムが大変面白かったのと、ときおり見せる小説的なフレーズが意外にも本格派な感じがして、書けばいいのにと思っていたら文學界で連載始めたと知って、作品については物凄く期待しました。

長編だったんですね。勝手に短編集かなと思ってたんですが、おおチャレンジだなと思って読むと、書きたいことが色々詰め込んであるなと感じました。著者インタビューで語っているとおり、原発事故や、それへの人々の反応に対して、喜劇として落し前をつけるということが、作品後半のテーマとなって現れてきます。作品全体としては、不確かな自分の存在や周りの出来事に対し、所詮は妄想のなかで生きていると感じながらも、確かなものを模索し続ける姿を描こうとしているのかなと思いました。

あらすじは、著者自身を思わせるような、TVの構成作家をやりながらマンガを描いている主人公が、居酒屋での出来事をきっかけに、身に覚えのない、でも以前から主人公と同棲しているという見知らぬ彼女との生活を送るようになり、そして戸惑いながらも適応して徐々に彼女についての情報を得るうちに、彼女以外にも欠落した記憶があることが明らかになり...というもの。間違えて履いて帰った居酒屋のゲタを返しにいって迷子になる場面や、TVの出演者がローションまみれになって、ローション鼻ちょうちんを作るところなど、TVブロスを読んでると元ネタが分かるところもあります。

天久聖一は以前「寺門ジモン自答」というコラムを連載していて、それが「俺A」と「俺B」の対話形式だったんですが、「おい、お前!」「何だ、俺!」で始まるその斬新なスタイルから、自己というものについて、かなり相対的に捉えているんだなと感じてました。作中にも、主人公が蕎麦屋でドラッグによるフラッシュバックを受ける場面があるんですが、その中で、「人はもともと自分の内側と外側に両足をかけている。(中略)内側に倒れれば幻覚が襲うし、外側に倒れても自分を見失う。だから辰彦は幻覚を信じないように、現実も信じ切ってはいない。それがふたつの狂気から自分を守る唯一の方法であることを、彼は経験的に体得している。」と述べているように、自分という存在が、危ういバランスでしか成立しないということを前提にしているんだと思います。

それを哲学的に突き詰めていくのではなく、日々のくだらないことを交えてギャグにしながら、あるひとつの感情に向って駆り立てられるように、物語は進んでいきます。SF的でもあり、ごった煮な印象を受けましたが、読み応えがありました。

勝手に、もっとミニマムなものを想像してて、多分、そっちの方が向いてるんじゃないかとも思うんですが、この作品は、小説に対する熱量が感じられて良かったです。物書きとして、凄く才能があると思うんで、どんどん書いてほしいです。

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なんつーんでしょうね。思いのほかかわいくて熱い小説だった。